依存症脱却、というテーマの中には家族と深くつながりすぎていることも
含んでいて、あまり家庭内の事情を事細かに描写するつもりはありませんが、
一貫しない父親の養育態度によって、確かな愛情を感じられないまま大人になった、
というところはあります。
長らく、目を見て話すことさえしてもらえなかった。
父が大腸がんで余命三年と宣告されてから五年ほど経ちました。
長らく投与されている抗がん剤にじわじわと生気を奪われていって、
最近は散歩などに出る意欲も無くなってきた、最近は殆ど寝たきりだと、
私にLINEを通じて訴えてきています。
そんな父に最近久しぶりに会ったときに、私の左腕に父がガシっと抱き着いてきて、
私にもたれかかりながら歩こうとしてきました。
生理的嫌悪感とともに、これが依存なんだな、と思いました。
どちらだって歩きづらい。
父は杖をついたほうがいいし、私も負担のないほうがいいです。
頼るものもすがりつくものもなく一人で歩かなければならないとなれば、
それは確かに心細いとは思いますが。
その後一緒に入った喫茶店では、父は私へ医者への不満や、それを言えない葛藤を私に
力いっぱいぶつけ、当たり散らしてきたので、私は堪えきれずキレてしまい、
父を置いて店を出て家に帰りました。
ただ、人に対してキレるということは私の人生でほとんどありませんでしたから、
正しいキレ方、本音の伝え方を教えてもらっているような感じがしているのと、
父が私にすがったり、怒りを吐き出して甘えたりすることも、
こういった状況になるまでありませんでしたから、これが本当の血のつながった
親子のやり取りなのかもしれないと思えていて、実は悪い心地ではないのです。
末期がん状態では、急変して、あっという間に悪くなって逝ってしまう、
ということがままあるようですから、いつでも心の準備をしておかないといけないと
思うのですが、目の前でストロベリーシェイクをすする父を見ていると、
つい呑気な気持ちになってしまっていけません。
先にここで別れを告げておこうかな。
逝ってらっしゃい、お父さん。